今朝の岩手日報連載『親鸞』に、「悪因苦果」という言葉が出てきました。
それに対し著者の五木寛之は親鸞に〈悲惨な境遇にある人びとを、本人の責任のようにみなしてきたのだ〉と言わせています。
前回のひとりごとで、偶然にも因果について私の考えを書いていましたので、この言葉には衝撃を受けました。私も、「苦」の原因をその本人に求めていたかもしれない、と気づいたのです。
宗教というのはとどのつまり、人を幸せにするためのものです。私を含めた宗教者が、「今あなたが不幸なのはあなたの責任ですよ」などと言ったならば、ますますその人は不幸になることでしょう。
苦の原因を究明するのが重要なのではなく、苦を認めた上で「大丈夫だよ」と言ってあげることが本当に重要なことではないかと目が覚める思いでした。
徳川光圀は「苦は楽の種」と言ったと伝えられています。原因を追求することばかりに躍起になるのではなく、今を受け入れて、あとは精一杯生きましょう。いつか苦という種から幸せが花開くのを信じて。
私もまだ30代です。このブログに書いてあることもまた10年後には違う結論に達しているかもしれません。だからこそ、今を精一杯生きていこうと思います。