とあるサイトで「厄払いを勧められたときの完璧な反論法」という記事を目にしました。
その方がが言うには、
『「厄払いしないで悪いことが起こったら、あなたはきっと『厄払いしなかったからだ』と言うでしょう。
厄払いして悪いことが起こったら、あなたはきっと『厄払いしたからこの程度で済んだんだ』と言うでしょう。
厄払いしないで無事過ごせたら、あなたはきっと『運が良かっただけだ』と言うでしょう。
厄払いして無事過ごせたら、あなたはきっと『厄払いしたおかげだ』と言うでしょう。
結局、来年がどんな年になっても、厄払いしたかしなかったかとは、全く無関係だということを、あなた自身が証明することになるということは、すでにわかっています。
なので、厄払いなんてものにムダな金をかける必要はないですよ」』
として、厄祓いが全く無意味であると結論づけています。
こういった考え方はとても合理的であると思いますし、現代ではこのような合理的な考え方がもてはやされていることも理解出来ます。しかし私はなお、以下の二つの点により、厄祓いに限らずご祈祷全般には無視できない大きな意義があると思います。
まず一つ目は、ご祈祷を受けることにより、生活が充実したものになるということです。
どういう事かというと、ご祈祷を受けることにより、不安を解消することが出来るわけです。つまり、「厄年でなにか悪いことが起きたらどうしよう」と不安に生活するよりも、「厄祓いをしたんだから大丈夫。神様が見守って下さる。」と思い生活するのでは、後者の方が自分本来の、もしくは自分の持っている以上のパフォーマンスを発揮できるのではないでしょうか。
もう一つは、そもそもご祈祷は「感謝」を基礎にしているということです。
皆さんはご祈祷というと「お願い事」をするものだと思っている方が大半だと思いますが、本来ご祈祷は「感謝」が先立っているものなのです。つまり、厄払いでいえば「厄年まで無事生きられたことを感謝する」ことが第一で、その次に厄年を無事乗り越えられますようにと祈るのです。
願い事が叶えられなければ無くなってしまうような、そんな神様との取引のような信仰は、真の信仰ではありません。本当の信仰とは、今我が身在ることを感謝すること、それにつきます。恨み言ばかりの人生は有意義なものにはなり得ません。
自分に足りないものを数えるのではなく、自分が今持っているものを数える、そのきっかけになること。あれもないこれもないと嘆いたり不安になったりするのではなく、あれも持っているこれも持っていると満足し安心すること。そんなこともご祈祷の意義の一つではないかと思います。